与太話、四方山話、法螺話

どうでもいい話、私にしか意味のない話。

ストレス発散に文章を打つと公開したくなるあたり、まだまともだと感じる

僕は心の底から運命というものがあればいいと思う。

それは全ての言い訳にできる言葉のような気がするからである。

例え嘘をついても、人を傷つけても何をしても運命という大きな流れのせいなのだと、そういう言い訳ができる気がしてくるのだ。

 

と言うのは嘘である。大体僕は嘘をつく時にあんまり悪いと思っていないし、後でバレても言い訳しようと思ったり逃げ道を見つけようと思ったりしないのである。「僕が怒られれば済む話だよ」、ということだ。こう言うと誰かを庇っているみたいだけれど。

 

運命があればいいと思うのは、自分の今までの事が全て運命だと思えば、心残りがなくなってくれるからだ。辞書で意味を調べれば大体同じ意味になるけれど、ここで言う心残りとは、後悔とは少し違うものである。そもそも僕は後悔なんて人生で一度もしたことがない。それが誇りだとすら言える。

 

僕は中学三年生の頃、高専を志望した。周りから見ればそれは自らの志願で、少なくとも嫌々高専を目指していたようには見えなかったと思う。

先に行っておくと、別に高専に入ったこと自体をどうこう思っているわけではない。入ったおかげで得ることも多かったし、元々色んな事に関心を持たず、よって興味もない僕には高専の3年間の味気ない勉強に関して文句も殆ど無い。勉強なんてそんなもんだろうと思う。素敵な友人や先輩や教師と出会って高専に入ってよかったと思うことも結構あったし。

 

ただ、なんだかなぁ、と思う。別の言い方では、どうもなんだかあれである。

 

思い返してみれば僕は最初から高専なんて目指していないのだ。だったら何を目指していたかと言えば、何も目指していなかったに違いない。夢はあった。だけど僕は夢は夢でしかないと思い込んでいて、そうなりたいと思ってもそうなろうと努力するべきではないことだと思っていた。実は今でも半分くらい思っている。だから俺は中学の頃の大好きな友人の夢に対して、優しい言葉を掛けられなかった。

ともかくそんな感じで、夢はあるけど目指さず、得意なことはあれど興味はなく、みたいな中途半端な状態で生きていた僕は中学三年生の時、将来のことを真面目に考えてなどいなかった。当時は真面目なつもりだったけれど、今ならわかる、当時の僕は周りの空気に当てられてただけだった。人に影響されやすい僕は、周りの推薦にその気になって、寮生活というものに憧れて、得意なことを好きなことだと思い込んで、流されるように高専を志望したのだった。

今なら当時の自分を批判できるかとも思ったが、これは現在の僕も同じである。元々望みもなく、夢なんて諦めて、技術は欲しいし勉強もするが魅力を感じず、無味乾燥な人生を生きているような僕は、そもそも流されてしかいない。その上で嘘つきの僕はまるで自分の意志で行動しているような顔をして堂々としているんだから、もうこれはどうしようもない。

 

ー別の話ー

 

自分では言い辛いし相変わらず嘘だと思われるだろうけれど、優しいと言われたことがある。ただ僕は自分が誰かに優しくしているのを見ると気持ち悪い。心の中で「うわ、化物が人間に取り入ろうとしてる」とか思ってしまう。自分の行動が他の誰が見るよりも嘘くさく見える。あんまりに自意識過剰だからかもしれない。

 

とにかくそんなんだから、僕は人に絶対同情しないようにしている。結構な確率で行き過ぎて、「不幸ぶりやがって」とかも思うけれど。同情している自分が気持ち悪い上に、同情ってものがどれだけ無意味か知っているからだ。いや寧ろ同情は相手に対しての攻撃ですらある。

親が亡くなったクラスメイトを全員で取り囲んで「大丈夫?」とか心配そうな顔して言いやがったり、話を良く知りもしないくせに「可哀想」とか言っていたり。本気で同情しているんだとしても、それは良いことでは決してない。相手を不快にさせる分かなりの威力がある攻撃である。

相手の悲しい話を聞いて泣く人がいる。それを共感してくれてるんだと嬉しく思う人もいるだろうが、大抵の人はそうは思わないし、例え泣いたからってそいつの話に共感してるとは限らない。雰囲気で泣く奴って言うのは、本当にいる。土下座が一種の暴力であるように、泣いたり相手のために行動するのも、相手に責任をおわすという意味で暴力なのだ。

 

ー別の話ー

 

嘘をついちゃいけないという人がいる。僕は昔から疑問を持っていて、例えばうわさ話をする時に少し誇張して伝えたり、自分の意見を通すために偉い人もそう言っていると言ったりするのは嘘じゃないのかと、そう思うのである。この疑問を数年前クラスメイトにぶつけたとき、「その程度は嘘と考えてないんじゃないか」と答えられた。そのとおりなのか僕には分からないが、しかし僕としては、自分を正当化するための言葉にしか思えない。しかも恐ろしいことに、その正当化は集団で行われているのだ。

 

嘘を付いてはいけない

    ↓

自分達も少しの嘘はつく

    ↓

言っていい嘘と悪い嘘がある

 

こういう正当化が日常的に行われているのだ。ふざけんな。

もっと腹が立つのは、自分は平気で嘘をつくのに人に嘘をつくなと言うやつである。しかもその中には、自分が嘘を付いているとすら自覚していない者もいる。その程度は嘘じゃない、とか無意識でまた正当化しているのだ。

嘘というものがある。人を騙し、自分の意見を通したり、隠し事をしたりするために使われる。だけど僕は、それを使うことは仕方ないと思う。この世には必要悪という便利な言葉があって、それに嘘は当てはまるのだと。だから嘘はいっていい。だけど、嘘をつく人間は、常に自分が嘘をつかれることを許すべきであり、騙されることを覚悟するべきである。嘘は誰だってつくのだ。だったら、嘘はつくけど、仕方ないよねって、そう言えるようにならなければいけないのだ。悪を悪と認めて、お互いに許し合う世界が生まれれば、この世はもうちょっと良くなると思うのである。

 

ま、ひょっとしたら嘘は良くないと言っている奴らの言葉はそれこそ嘘かもしれないと思うと、彼らを否定しきれない。そうだといいな、とか思う。